8盛岡市水道90年日本の水道事業と盛岡市の水道事業第1章盛岡市の水道事業90年(創設事業〜第7次拡張事業)創設事業(昭和7〜9年度) 水道事業の着手を決意したのは、当時の中村謙蔵市長。昭和4年度の市予算で水道調査費を計上し、同年10月には、水道事業の権威といわれた内務省技師の河口協介氏を招き、市内3河川の状況を視察しました。その結果、豊富な水量と優れた水質を持つ米内川が水源に選ばれ、水道工事の調査設計が始まりました。 2年の歳月をかけ、昭和6年に完成した計画は、取水口−浄水場−配水池を結ぶ導・送水管に高級鋳鉄管を採用し、自然の高低差を利用した自然流下で水を送り、配水池から総延長100kmにも及ぶ配水管を市内に張り巡らせるというものでした。 給水計画は、30年後の給水人口を10万人と見込んで計画しましたが(昭和5年の人口は6万2,249人)、これらの設備を一気に整備することは経済的に困難なため、工事は第1期計画給水人口5万人、第2期10万人と想定しました。取水口や送水管、配水本管のように将来増設するにあたって巨費を要するものは第2期計画とし、沈でん池やろ過池、配水池など必要に応じ拡張できるものは第1期計画としました。 昭和8年5月に本格工事が始まり、浄水場や配水池などの施設工事や鋳鉄管の接合には水道事業の先進地だった関東、関西方面の作業員を雇い、資材の運搬や道路の掘り起こし、送配水管の埋設や土砂の埋め戻しなどは地元の業者が担当しました。 昭和9年8月に水道施設や水道本管工事が完了し、翌月から給水工事を開始し、12月1日には一般家庭などへ給水を始めました。この間、金融恐慌、三陸大津波、大飢饉に見舞われながらも、着工からわずか2年足らずでこの難工事を終えたことは驚くべきことでした。 本市は完成した水道の一層の普及を図る方針でしたが、戦時体制が強化されたことで資材不足や労働力不足となり、拡張を目指す水道事業は窮地に立たされました。昭和16年に第二次世界大戦が始まってからは、断水と時間給水を余儀なくされました。それに追い打ちをかけるように、昭和19年7月には大洪水が発生し、米内川沿いに埋設していた送水管が破壊され、送水機能が断たれる悲運にも見舞われました。事業名創設事業第1次拡張事業第2次拡張事業第3次拡張事業第1期第4次拡張事業第2期本事業昭和41年12月28日第5次拡張事業変更事業昭和45年3月20日本事業昭和47年3月31日第6次拡張事業変更事業昭和59年6月18日本事業昭和63年1月14日第7次拡張事業変更事業変更その2事業認可年月日昭和7年8月12日昭和25年4月14日昭和28年4月14日昭和30年10月4日昭和32年6月22日昭和38年12月28日平成5年12月17日平成15年3月20日(届出)平成23年3月16日平成26年3月19日(届出)計画給水人口計画給水量 50,000人 6,300m³/日昭和7〜9年度 63,000人 12,650m³/日昭和25年度 70,000人 14,750m³/日昭和28〜29年度青山揚水場建設 75,000人 15,750m³/日昭和30〜31年度北厨川揚水場建設100,000人 30,000m³/日昭和32〜37年度120,000人 36,000m³/日昭和39〜43年度161,500人 59,000m³/日昭和42〜45年度174,000人 67,500m³/日昭和45〜48年度中屋敷浄水場施設拡充230,100人 96,900m³/日昭和47〜55年度沢田浄水場建設230,500人 96,900m³/日昭和59年度251,500人126,700m³/日386,280人198,491m³/日(届出)(届出)303,499人109,533m³/日(届出)(届出)工 期米内浄水場建設新庄配水場建設中津川揚水場建設中屋敷浄水場建設高松配水場建設中屋敷浄水場施設拡充高松配水場施設拡充米内浄水場施設及び新庄配水場拡充給水区域変更中屋敷浄水場活性炭処理施設導入昭和63〜平成10年度新庄浄水場建設水質検査センター(現水質管理センター)建設第7次拡張事業の継承都南村合併に伴う緊急整備平成5〜28年度平成23〜令和2年度玉山村合併に伴う事業統合主要工事創設事業から拡張事業の概要
元のページ ../index.html#10