■第二部「難工事を経て実現した、悲願の水道。」 |
人力で命がけの作業
1933年5月、いよいよ盛岡市水道事業創設工事が本格的に始まりました。
浄水場や配水池などの施設工事は、水道先進地だった関東、関西方面の作業員を盛岡市が雇って行いました。
一方、地元の業者は資材の運搬や道路の掘り起こし、送配水管の埋設や土砂の埋め戻しなどを担当。しかし、送配水管を埋設する道は米内川に沿って蛇行してい
たため、簡単には埋設できません。道を直線にして埋めやすくするために山すそを削ったり、川をせき止めて道路を広げたりといった工夫をしながらの作業でし
た。
道具はつるはしとスコップ。大きな岩盤は丸太や鉄棒をテコに使って持ち上げ、それでも無理なときは発破がかけられました。
道路ができるとようやく送水管を埋めるための穴掘りが始まります。穴の深さは約1.5メートル。まずは作業員が道路の中央に縦一列に並び、つるはしとスコップで地面を掘り下げます。 |
穴
を掘るのは男性ですが、モッコで担ぎ出すのは女性の仕事でした。一列に並んで掘った穴がようやくひと続きの溝となってつながると、いよいよ送水管の埋設で
す。送水管一本の長さは4メートル、管径300~400ミリで、重さはなんと400~500キロ。とても人力では降ろせません。滑車を使って管を持ち上
げ、管の下に何本ものロープを掛けて渡し、溝の脇に並んだ作業員たちがロープの端を握りながらゆっくり管を降ろす・・・といった手順を踏み、足場の悪いと
ころでは馬も管を引っ張ったといいます。
降ろした管を接合し、最後に掘り出した土砂を埋め戻し、地ならしをすると、ようやく完了です。
また、米内川沿いの埋設工事では、曲がりくねる道路を掘り起こすより、米内川の下に直線的に送水管を埋設したほうが、時間も資材も経費も節約できるので、川底を掘り埋設する「伏せ越し」工事も行われました。
しかしこれがまた難工事。川の水が流れるままでは穴を掘れないため、川の半分をせき止めて流れを変えなくてはなりません。しかし米内川は渓谷で川幅が狭い
急流。淵を削って川幅を広げてみても、土を入れた袋を積んで浸水を防いでみても水はあふれ出し、川底を掘り下げている作業員は頭から水びたしになることも
しばしばでした。ポンプやバケツでせっせと水を吐き出しながらの作業だったといえます。 |
困難を極めた「中津川越え」
一方、道路も整備され、足場もよい市内の配水管埋設工事は、配水管そのものの管径
が次第に細く軽くなったこともあり、米内川沿いの工事に比べるとスムーズだったようです。街なかでの難工事の一つは中津川越え。新庄の配水池から天神町を
経て、上の橋まで埋設工事が進んできたのですが、由緒ある橋にむき出しの送水管を架設するわけにはいかないと、伏せ越しをすることになったのです。米内川
に比べて川幅も一段と広いうえに、両側が護岸のために石積みが築かれていたため、穴を掘るために川の半分をせき止めると、もう半分の水かさが増し、せっか
く掘った穴に水が流れ込んでしまうのです。 |
く
み上げポンプや自動車のエンジン、消防用の手押しポンプなどを借りて、絶え間なく水掻きを繰り返しながらの作業。浸水のために作業を一時中断するなどの苦
労を重ね、ようやく中津川を伏せ越し。その後も開運橋で北上川にぶつかりましたが、さすがに北上川の伏せ越しは無理と判断され、鉄製の開運橋の橋桁に配水
管を架設し、この配水管を通じて盛岡駅前や青山町方面へ供給されることになりました。一方、中津川を境に北側に位置する河北地区では、数年前に盛岡水道利
用組合が埋設していたコンクリート製の管をいったん全部取り除いて高級鋳鉄管を埋設。南側に位置する河南地区では、仙北町方面に供給するために再び明治橋
で北上川越えとなりましたが、こちらも明治橋の橋桁に配水管が架設されました。
こうした難工事の末に、施設を含めた工事が完了したのが1934年8月。26日には管の清掃を兼ねて水を送り始めました。9月3日には各地区への水の流れ
具合や水圧などを確認するため、市内の配水管へも水を送りました。11月23日に通水落成式を行い、一般家庭や職場に水が供給されたのは、12月1日のこ
とでした。
待ちに待った水道。蛇口からほとばしるきれいな水に、人々は歓声を上げて喜んだといいます。 |